台湾の役戦没将兵慰霊 全文
宮能久親王殿下率いる近衛師団は、5月29日台湾島北東端の三貂角(さんちょうかく)に上陸を開始しました。それ以降、各地で頑強に抵抗する民主国軍及び台湾義勇軍と激しい戦闘を展開しながら、これを鎮圧し、台北から台中へと転戦していきました。
当時の中部地方の政治経済の中心地である彰化城市に8月28日入城した翌日に、樺山資紀(すけのり)台湾総督から近衛師団に南進停止の命が下されました。その理由は、鎮圧して部隊が移動したあとの台北各地で反乱が続出していることと南部の状況が不穏であることから、第二師団の到着を待って新作戦を遂行するためでした。
また、もともとマラリア、赤痢、コレラなどの疫病が絶えない非衛生的な地域ですが、これまで体験したことのない当地特有の蒸し暑さや酷暑に疲労も加わりマラリア等罹患者の発生がその極に達していました。野戦病院とした各住居では1,000人を超える入院者であふれ、院長・軍医5人中3人、看護兵41人中16人が倒れ、記録では彰化駐留中の病死者は140余人を数え、全師団中健康な者は2割にも満たないという悲惨な状況に追い込まれていたのでした。
日本軍が鎮圧しながら南進してきましたが、征服したのは点と線に過ぎないため、台湾義勇軍は、ゲリラ戦法を用い各地で作戦を展開中の日本軍に執拗に戦いを挑んできました。その結果、日本軍も窮地に追い込まれることが度々ありました。それらの戦いの犠牲者となった日本兵の死体が発覚するとその仕返しで部落民が皆殺しになるのを恐れて、近くの草尾嶺の山中に運び密かに埋めたとされています。ここは「日本兵窟」と呼ばれ、深夜に日本兵の亡霊が出ると噂されて今日まで言い伝えられてきました。
これらの遺骨は開墾等により偶然発掘されたものではなく、地元の農家の人が開墾するために遺骨を掘り起こして、これを日本兵の遺骨を弔っている台中市の宝覚寺に預け供養してきました。その宝覚寺から日台合同の慰霊祭を行うための請聘状(民国70年6月25日付け)が当恵光会会長であります妙寿寺住職の遠山海光和尚、並びに長崎市本蓮寺住職の山田完修和尚あてに届いたのでした。 ※ 民国70年=昭和56年
これにより近衛師団将兵の遺骨の存在を認知することとなった当遠山会長は、台湾に赴いての合同慰霊祭の共催、遺骨の帰還、遺骨奉迎委員会の立上げ、奉迎式典の開催、仮安置所の設置、厚生省及び防衛庁研修所での遺骨の調査並びに専門家への調査依頼、長崎県・大村市・近衛師団等軍関係団体への各種協力依頼、奉安殿建立の趣意書作成、発起人就任の依頼、募金活動、用地の取得、奉安殿(慰霊塔)建設、開眼法要の開催、毎年2月24日に慰霊祭の開催など、多くの未知で困難な局面に立ち向かい目的達成のため全精力と情熱をつぎ込んで来られたのでした。
宝覚寺の住職をはじめ台湾側の心温まるご厚意に応えるため、日蓮宗宗門慰霊奉行団並びに戦没慰霊奉賛会の代表一行は、台中の宝覚寺と碧山寺で慰霊法要を行いました。また、宝覚寺住職陳金鑾法師に感謝の意を伝え感謝状を贈りました。
また、日蓮宗管長金子日威大僧正(全日本仏教会会長)の裁許を得て、日蓮宗慰霊修法派遣団一行70余人が大挙台湾の現地を訪れ、日台両国の僧による大規模な合同慰霊法要が営まれたことから、多大の感銘を受けたと台湾の朝野から大きな反響がありました。これらの合同慰霊法要を通して、今日の台湾との相互信頼の礎、交流の架け橋的な役割の一端を果たしたのではないでしょうか。